写真という趣味について、私が今思うこと。
良い被写体を探す時代は、ずいぶん前に終わっている
世界中の写真を気軽に見ることができる時代なので、被写体が良いだけの写真はもう色褪せている。被写体の良さに関わらず、その被写体の魅力を最大限に引き出せているかどうか、そしてそこに新鮮さがあるか、が重要だと思う。どんなに完ぺきに構築しつくされていても、手垢がつきまくった写真に感動はできない。
だが所詮は趣味なんだから、過去にどこかの誰かがやっていたとしても、自分の頭で考えて導き出した自分史上初の写真であれば、それは自分にとって新鮮なもので、それでいいと思っている。
理解が深まっていく過程が楽しい
まず良い(=自分好みの)写真が何気なく、偶然撮れた、というところがスタートだと思う。で、それの何が良いのか、どうすればもっと良くできるのかなどを考えて、実践して、それがばっちりはまったとき気持ちがいい。
でも答えが分かったうえでのただの答え合わせになると、途端に詰まらなくなる。答えを模索している間が楽しい。犯人の分かっている本格ミステリを読んでもつまらないのと似ている。つまり挑戦を続けないと楽しくない。
不幸なのは、最近写真を始めた人が多少良い写真が偶然撮れたとしても、もっともっと良いように見える写真が世の中に溢れかえっており、モチベーションを、ひいては上達の機会を失うかもしれないこと。
幸運なのは、スマホにはまず間違いなくカメラが付いており、偶然にも良い写真が撮れる機会は昔よりもはるかに多いこと。裾野の広さは、文化にとってもっとも重要なファクターかもしれない。にわかがたくさんいてこそ、その界隈は発展する。
自分の写真の良し悪しは、自分で決める
私は私のために、私の好みに最適化した写真を撮り続けているんだから、私にとってもっとも良い写真を撮るのは私だし、それをもっと良くできるのも私だけだし、私の写真を正しく評価できるのも私しかいないと思っている。だから他人にはその良さは分からなくても当然で、何も問題ないと思っている。他人にとってはゴミ写真でOKだし、他人の評価なんて私にとってはゴミである。趣味なんだから、それくらいの傲慢さはなくてはならないと思う。
審査制の写真投稿サイトとか、意味不明である。誰のために写真を撮っているのか。まぁでも、それは承認欲求が希薄な私の性質によるだけかもしれないが。
なお、プロは自分のため(だけ)に写真を撮っているわけではないので、別ジャンルだ。クライアントに依頼されて撮るプロはもちろん、自主的に作品を作ってそれを販売して利益を得るプロも、自分ではない誰かに高く評価されることを目的としている。我々、趣味で写真を撮っている人との決定的な違いだと思う。
言い方が悪いが、商業写真家は他人の歓心を買うために、時に分かりやすく奇抜で「個性的」なスタイルを必要としている。だが個性なんてものは、自由に撮っていたら勝手に滲みだすものであって、「これが私の個性、スタイルだ」と決めつけて、それに合わせるように撮っているとしたら、それは個性なんかじゃない。写真をお金にするにはそういうアイコンが必要なのかもしれないが、私には必要ない。
商業写真家と趣味写真家(のうち、少なくとも私)は目指すベクトルが全く違うので、商業写真家にとっての正は、趣味写真家にとっても正とは限らない。商業写真家には、趣味写真家も同じベクトルを目指していて(=いい写真とは他人に評価される写真のことだと思っている=趣味写真家はプロになりたいと思っている)、かつ自分たちが上だと勘違いしている人も少なからずいるようだ。おこがましいことだ。
少なくとも私は、他人に気に入られることを目指して写真を撮りたいとは思わない。
なぜ撮るか
知ったことではない。なぜ撮ったのか、何を表現したかったのか説明できない写真はダメだ、とか写真を言語化することが重要だ、という風潮が一部にあるが、お前は何を言っているのだ?と思う。なんであれ、心が動いたから撮っているんだよ。それを表現するために、様々な周辺状況に合わせて適切な構図や絞りを決めて、シャッターを切ることで、写真という形に定着させているのだ。だからその写真を見ることで、その時の感動を後から思い出せる。言語は関係ない。
いわゆる「ステートメント」という名の表現したい「言葉や文章」が先にあって、そこから逆算するように撮られた写真は、洗練されているかもしれないが、感動が伝わってこない。同じ場所に何十回も通って、最高の瞬間を待つ、というのも私は全く魅力を感じない。先にも書いた、答えが分かったうえでの答え合わせになる。あーはいはい、クソ食らえ、である。
私は心の動くままに撮りたい。だからこそ、心が動いた瞬間を最高の形で切り取れるように、日々の鍛錬が必要なのだ。知らんけど。
でもまぁ写真は知らないが、感情や考えを言語化することは悪いことではない。感情や考えを体系的に整理できるから。こうやってどうでもいい文章を書いているのも、まさにそれである。さほど整理できていないけど。
まぁ、人は自分の理解できないものを馬鹿にしてしまうものだ。それが自分より遥かに下のものも、逆に遥かに上のものであっても理解できないから馬鹿にしてしまう。自分のレベルに合ったものだけが理解できる。それには写真に限定されない広範な知識、教養も必要である。なので私のレベルが次のステージに進んだり、立ち位置が変わったり、知識が広がれば、ここまで書きつけてきた考えはコロッと変わる可能性は大いにある。
例えば私がもし、いつでも何の被写体でもその魅力を瞬時に最大限に引き出すだけの技術と経験を手に入れたならば、そのときに思っていることは全然別なんだろう。
ということで、日々の鍛錬として、どうしようもない被写体を楽しく撮っているような写真を選んでみた。カメラは全部M11だけど、レンズはバラバラ。